自身初の東北旅。岩手に決めた理由は、遠野物語に惹かれたからだ。語り継がれた風習が残り、懐かしい日本の風景が息づく里。聞いただけで胸が高鳴る。「遠野物語」は、官僚で民俗学者の柳田國男が、遠野町出身の作家佐々木鏡石から聞いた遠野地方に伝わる伝承や逸話を書き取り、まとめた自身の代表作で、カッパ・座敷童などの妖怪やコンセイサマ・オシラサマなどの神様にまつわる話や、マヨイガ・神隠しなど異界へ誘われる話など、心を擽られる説話で溢れかえっている。古きよき日本の魅力を凝縮した遠野物語も買ったし、パンフレット類もツーリズムエキスポジャパンの岩手県ブースで手に入れた。さすが、準備万端じゃないですか!と言いたい気持ちは分かるが、一つ問題がある。オシラサマを書いた69話とあと2ページくらいしか読んでない!ほとんど詳しい情報が入ってない!!大丈夫、大丈夫だ、祥平!まず感じろ!現場で感じろ!!盛岡のホテルを出て、レンタカーを手配する。日ごろ運転をしない私は衝撃を受けた。どうやらボタンでエンジンがかかるらしい。何だこのハイテクな車は!この高機能な乗り物だったらいくらでも移動できる!できる限り物語に登場する場所を回ってみせようと奮起し、遠野へ出発した。
遠野郷は今の陸中上閉伊(かみへい)郡の西の半分、山々にて取り囲まれたる平地なり。新町村にては、遠野、土淵(つちぶち)、附馬牛(つくもうし)、松崎、青笹、上郷、小友(をとも)、綾織(あやおり)、鱒沢(ますざは)、宮守(みやもり)、達曾部(たっそべ)の一町十か村に分かつ。近代あるいは西閉伊郡とも称し、中古にはまた遠野保(とほのほ)とも呼べり。今日郡役所のある遠野町はすなはち一郷の町場にして、南部家一万石の城下なり。城を横田城ともいふ。この地へ行くには花巻の停車場にて汽車を下り、北上(きたかみ)川を渡り、その川の支流猿ヶ石川の渓を伝ひて、東の方へ入ること十三里、遠野の町に至る。山奥には珍しき繁華の地なり。伝え言ふ、遠野郷の地大昔はすべて一円の湖水なりしに、その水猿ヶ石川となりて人界に流れ出でしより、自然にかくのごとき邑落をなせしなりと。されば谷川のこの猿ヶ石に落ち合ふものはなはだ多く、俗に七内八崎(ななないやさき)ありと称す。内は沢または谷のことにて、奥州の地名には多くあり。遠野郷のトーはもとアイヌ語の湖という語より出でたるなるべし、ナイもアイヌ語なり。(『遠野物語』第1話)
#2 南部曲り家千葉家
車を走らせること1時間と少し。一つ目のスポット、南部曲り家千葉家に到着。曲り家とはちょうどL字型になった家で、人の住む母屋と馬小屋が一緒になった、この地域特有のつくりをした家である。遠野は三陸沿岸と内陸を結ぶ交易拠点だったため、力仕事や運送の手段として馬は生活に欠かせないものだった。江戸時代、馬の飼育が盛んになるにつれ、家の形は改良され、曲り家が確立した。馬と寝食を共にする家のつくりからは馬を家族のように愛した当時の情景が浮かんでくる。この特徴的な形をした民家が山の中で不思議なる家「マヨヒガ」として忽然と現れたのだろうか。庭に立ち、眼下を見晴らす。この場所ではそのような現象が起こったとしても十分理解できる。物語の中に簡単に入り込むことのできる景色がそこには広がっていた。
小国(おぐに)の三浦某といふは村一の金持なり。今より二三代前の主人、まだ家は貧しくして、妻は少しく魯鈍なりき。この妻ある日門の前を流るる小さき川に沿ひて蕗を採りに入りしに、よき物少なければ次第に谷奥深く登りたり。さてふと見れば立派なる黒き門の家あり。いぶかしけれど門の中に入りて見るに、大なる庭にて紅白の花一面に咲き鶏多く遊べり。その庭を裏の方へ廻れば、牛小屋ありて牛多くをり、馬舎ありて馬多くをれども、いつかうに人はをらず。つひに玄関より上りたるに、その次の間には朱と黒との膳椀をあまた取り出したり。奥の座敷には火鉢ありて鉄瓶の湯のたぎれるを見たり。されどもつひに人影はなければ、もしや山男の家ではないかと急に恐ろしくなり、駆け出して家に帰りたり。この事を人に語れども実と思ふ者もなかりしが、またある日わが家のカドに出でて物を洗ひてありしに、川上より赤き椀一つ流れてきたり。あまり美しければ拾い上げたれど、これを食器に用ゐたらば汚しと人に叱られんかと思ひ、ケセネギツの中に置きてケセネを量る器となしたり。しかるにこの器にて量り始めてより、いつまで経ちてもケセネ尽きず。家の者もこれを怪しみて女に問ひたるとき、始めて川より拾い上げし由をば語りぬ。この家はこれより幸運に向かひ、つひに今の三浦家となれり。遠野にては山中の不思議なる家をマヨヒガといふ。マヨヒガに行き当たりたる者は、必ずその家の内の什器家畜何にてもあれ持ち出でて来べきものなり。その人に授けんがためにかかる家をば見するなり。女が無慾にて何物をも盗み来ざりしがゆゑに、この椀みづから流れて来たりしなるべしといへり。このカドは門にはあらず。川戸にて門前を流るる川の岸に水を汲み物を洗うため家ごとに設けたるところなり。ケセネは米稗その他の穀物をいふ。キツはその穀物を容るる箱なり。大小種々のキツあり。(『遠野物語』第63話)
綾織村山口の続石は、この頃学者のいうドルメンというものによく似ている。二つ並んだ六尺ばかりの台石の上に、幅が一間半、長さ五間もある大石が横に乗せられ、その下を鳥居のように人が通り抜けて行くことができる。武蔵坊弁慶の作ったものであるという。昔弁慶がこの仕事をするために、いったんこの笠石を持って来て、今の泣石という別の大岩の上に乗せた。そうするとその泣石が、おれは位の高い石であるのに、一生永代他の大石の下になるのは残念だといって、一夜じゅう泣き明かした。弁慶はそんなら他の岩を台にしようと、再びその石に足を掛けて持ち運んで、今の台石の上に置いた。それゆえに続石の笠石には、弁慶の足型の窪みがある。泣石という名もその時からついた。今でも涙のように雫を垂らして、続石の脇に立っている。(『遠野物語拾遺』第11話)
コンセサマを祭れる家も少なからず。この神の神体はオコマサマとよく似たり。オコマサマの社は里に多くあり。石または木にて男の物を作りて捧ぐるなり。今はおひおひとその事少なくなれり。(『遠野物語』第16話)
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺および火渡(ひわたり)、青笹の字中沢ならびに土淵村の字土淵に、ともにダンノハナといふ地名あり。その近傍にこれと相対して必ず蓮台野(れんだいの)といふ地あり。昔は六十を超えたる老人はすべてこの蓮台野へ追ひやるの習ひありき。老人はいたづらに死んでしまふこともならぬゆゑに、日中は里へ下り農作して口を糊したり。そのために今も山口土淵辺にては朝(あした)に野らに出づるをハカダチといひ、夕方野らより帰ることをハカアガリといふといへり。ダンノハナは壇の塙なるべし。すなはち丘の上にて塚を築きたる場所ならん。境の神を祭るための塚なりと信ず。蓮台野もこの類なるべきこと『石神問答』中に言へり。(柳田國男『遠野物語』第111話)
伝承園に着く。正午の日差しはあれど、風がひんやりとして肌寒い。遠野に入ってからまだ3時間ほどしか経過していないのに、頭の中はたくさんの物語で溢れかえっていた。冷えた体をひっつみ汁であたためて、しばし休息をとる。その間も午前中に見た千葉家からの眺望、続石を包み込む森の重厚な空気、山口集落を形成する絵画のような風景が頭の中を巡る。ただ唯一駆け回ることもせず、頭のど真ん中に重い腰を下ろして記憶の中心となっているものがある。そう!コンセイサマでの一件である。あの赤っ恥エピソードが頭から離れない。お前がおる場所は中央じゃないんじゃ!そんな真ん中で堂々とせずに、記憶の奥底で永眠しとってくれー!頭の中の赤っ恥さんを飼い慣らせないまま園内を歩く。曲り家で昔話が聴けるらしい。靴を脱ぎ、囲炉裏のある部屋に上がる。「昔あったずもな…」語り部が表情豊かに話すオシラサマに聞き入る。遠野の方言で語られているのに、なぜか意味が伝わってくる。心のこもった言葉は、きっと意味を脳でかみくだく前に、心に届くんだろうなぁと妙に納得した。曲り家を出て、オシラ堂へ向かう。オシラサマは馬、眼、女性の病気、子ども、狩り、蚕、農業、そして、「お知らせ」の神さまと様々な神格を持っており、東北地方の家庭で広く信仰された。岩手県に、現存する最古のオシラサマには大永5年(1525)の銘があるらしい。オシラサマ伝説の白黒写真が並ぶ細い通路をくぐると御神木を祀ったお堂がある。お堂の赤い壁が隠れるほどびっしりと1,000体のオシラサマが飾られている。お堂に広がる赤に包まれた神秘的な空間。オシラサマに願う人々のあらゆる想いが充満して飽和状態となっているような空間で、祈りの強さに圧倒され、緊迫感に囚われる。ここは物語の世界ではない。オシラサマは今もはっきりと存在した。
今の土淵村には大同(だいどう)といふ家二軒あり。山口の大同は当主を大洞万之丞(おおほらまんのじょう)という。この人の養母名はおひで、八十を超えて今も達者なり。佐々木氏の祖母の姉なり。魔法に長じたり。まじなひにて蛇を殺し、木に止まれる鳥を落としなどするを佐々木君はよく見せてもらひたり。昨年の旧暦正月十五日に、この老女の語りしには、昔ある処に貧しき百姓あり。妻はなくて美しき娘あり。また一匹の馬を養ふ。娘この馬を愛して夜になれば厩舎に行きて寝ね、つひに馬と夫婦になれり。ある夜父はこの事を知りて、その次の日に娘には知らせず、馬を連れ出して桑の木につり下げて殺したり。その夜娘は馬のおらぬより父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しみて桑の木の下に行き、死したる馬の首に縋りて泣きゐたりしを、父はこれをにくみて斧をもちて後より馬の首を切り落とせしに、たちまち娘はその首に乗りたるまま天に昇り去れり。オシラサマといふはこの時よりなりたる神なり。馬をつり下げたる桑の枝にてその神の像を作る。その像三つありき。本(もと)にて作りしは山口の大同にあり。これを姉神とす。中にて作りしは山崎の在家権十郎(ざいけごんじゅうろう)といふ人の家にあり。佐々木氏の伯母が縁付きたる家なるが、今は家絶えて神の行方を知らず。末にて作りし妹神の像は今附馬牛村にありといへり。(『遠野物語』第69話)
外はまだ1時を過ぎたばかりなのに、風が冷たくなり、夕方の雰囲気が漂う。雲も出てきて、愈々カッパが現れる予感がしてきた。途中、常堅寺に寄る。ここには、珍しいカッパ狛犬がいる。昔、常堅寺に火事が起こった際に、頭の皿から水を噴き出して火を消し止めたという話があり、ここにカッパ狛犬として姿を残している。常堅寺の脇を抜けると、カッパ淵に出る。周辺一帯には遠くまで見渡せる田園風景が広がっているのに、ここだけ森に居るように、木々が生い茂り、否応なしにカッパを連想させる。淵にかかるカッパ淵橋を渡り、川沿いを歩く。祠にはカッパの神と初代の守っ人の写真が祀られている。初代の守っ人はピースで写っている。素晴らしい生き様である。祠の横にはキュウリが吊るされた竿が数本置かれている。どうやら、捕獲許可証を持った選ばれし者、いや200円を払ってカードを購入した者のみ、この竿を手にすることができるようだ。私はその聖なる竿を手に、早速カッパ釣りを開始した。川の一箇所からコポコポと泡が立っている場所がある。其処に狙いを定め、竿を垂らす。開始から5分。釣れず。カッパを誘く道具を手放し、物語に浸りながら、車に戻る。その間も、私はカッパの姿を捜していた。川沿いの茂みの中、カッパ淵橋の下、常堅寺の境内、向かいのホーム、路地裏の窓、こんなとこにいるはずもないのに。とうとうカッパは姿を見せてはくれなかったが、様子を窺われている気配を感じるには十分の場所だった。
小烏瀬(こがらせ)川の姥子淵(をばこふち)の辺に、新屋(しんや)の家(うち)といふ家あり。ある日淵へ馬を冷やしに行き、馬曳きの子は外へ遊びに行きし間に、川童出でてその馬を引き込まんとし、かへりて馬に引きずられて厩の前に来たり、馬槽に覆はれてありき。家の者馬槽の伏せてあるを怪しみて少しあけて見れば川童の手いでたり。村中の者集まりて殺さんか宥さんかと評議せしが、結局今後は村中の馬に悪戯をせぬといふ堅き約束をさせてこれを放したり。その川童今は村を去りて相沢の滝の淵に住めりといふ。(『遠野物語』第56話)
日の翳りが早い。少し急いで五百羅漢へ向かう。時計はまだ4時だが、時間と比べて明らかに暗い。遠野は異界の扉を開ける支度を始めようとしていた。山に向かい、少し歩く速度を上げ、目的地を目指した。200メートルほど進んだところで道は真っ直ぐに伸び、遠くまで見渡せることができた。100メートルほど前方に黒々とした巨大な岩が見える。それは道の中央に黙座して行く先を遮断しているように見えた。行き止まりかと疑いながらスピードを緩めて前進する。そのとき、漆黒の巨岩に顔が浮かび上がった。出た!妖怪が出た!さらに闇を纏ったその物体とばっちり目が遭ってしまう。互いに微動だにせず、時間が経過してゆく。時間にして15秒。感覚にして15分、いや15分18秒43、黒の生命体が熊であることに気付く。よかった。ただの熊だった。…いや、よくない!熊はよくない!!一瞬の安堵を超え、恐怖が全身を駆け回る。心臓のバクバクは上半身に留まらず、鳥肌は腕だけに留まらず、下半身へ、そして全身に波及した。視線を熱く交わしたまま、1歩、2歩後退りし、0コンマ03秒で180°転回し、歩いてきた上り坂をウサイン・ボルト顔負けのスピードと、マイク・パウエル宛らの跳躍で、坂道をちょうど5歩で駆け下りた。そんな感覚だった。追いかけてきていたかもしれないが、振り返れなかった。車に飛び乗り、吹き出る汗をそのままに、呼吸を取り戻そうとした。駐車場に停車した車から、五百羅漢を目指す男性の姿が見えた。私は車を降り、興奮冷めやらぬテンションで「気を付けてください!熊がいますよ!!」と伝えた。男性はパニックになり、周りをキョロキョロと見始めた。私は男性の動きを見てさらにパニックになった。「どこですか?」という男性の声に我に返った。完全に言葉が足りていない。模範は「今、五百羅漢に向かう道の途中に熊が居たので、もし行かれる場合は気を付けてください。」だ。いかなるときも、冷静さを欠いてはならない。無念だ。五百羅漢は拝めなかった。コンセイサマパニックさえなければもっと早くここに着いて…いや、待てよ。違う!もし、コンセイサマを拝観したあと、車がスムーズに動いていたら…。五百羅漢を見た帰り道に熊に遭遇して…。考えてゾッとした。コンセイサマは、命を救ってくれたのだ。コンセイサマ、本当に本当に有難う御座います。
一昨年の遠野新聞にもこの記事を載せたり。上郷村の熊といふ男、友人と共に雪の日に六角牛に狩りに行き谷深く入りしに、熊の足跡を見いでたれば、手分けしてその跡を覓め、自分は峰の方を行きしに、とある岩の陰より大なる熊こちらを見る。矢頃あまりに近かりしかば、銃をすてて熊に抱へ付き雪の上を転びて、谷へ下る。連れの男これを救はんと思へども力及ばず。やがて谷川に落ち入りて、人の熊下になり水に沈みたりしかば、その隙(ひま)に獣の熊を打ち取りぬ。水にも溺れず、爪の傷は数か所受けたれども命にさはることはなかりき。(『遠野物語』第43話)
車を走らせ、無事、盛岡に到着。人は安堵を得ると腹が減るものなのだろう。今晩のご飯は「東屋」。人生初のわんこそばに挑む。椀を重ねて杯を数えることのできる品を注文。味を変えて楽しめるようにと、胡麻、海苔、一升漬、なめこおろし、さらには、鮪刺身、とりそぼろなど所狭しと薬味が並ぶ。対戦相手のお給仕さんからの説明を受ける。100杯食べると「わんこそば証明手形」を貰えるということだ。100杯食べれば私の勝ち。食べられなければ負け。分かりやすい!そして、戦いの幕が上がる。相手のペースに吞まれないように、心の声を見透かされないように、平常心を保ちながら快調に飛ばす。それはまるで老舗鰻屋の秘伝ダレのように味も変えずに、創業明治40年の歴史ある蕎麦を体内に取り込む。わんこが空になると「はい、じゃんじゃん。」の掛け声で、蕎麦が椀に飛んでくる。私の頭の中は、ソフトボールの練習に汗を流す小学生時代の情景が浮かび、現在とシンクロした。真夏の暑いグラウンド、集中ノックの練習。ボールが次々にグローブに勢いよく飛んでくる。蕎麦がボールで、お椀がグローブ。むせかえるように暑いグラウンドが海苔が気管に侵入してむせるサウンド。似ているどころではない。酷似している。50杯を過ぎ、味を変える。旨い。とりそぼろ合う!これならまだまだ行ける。あと半分。…70杯を過ぎた頃、わんこそばの味ってこれだっけ?という疑問が生じた。10文字で簡潔に説明しなさい。という問いであれば、こうだ。「味のゲシュタルト崩壊」。そして、80杯を過ぎる頃、急に満腹が訪れた。苦痛に顔を歪めながら、蕎麦を流し込む。この動作をまだ続けるのか。叶える夢を見失いそうになった瞬間、頭の中を漆黒に身を裹み、真っ直ぐな瞳でこちらを見つめる熊が過った。一度は死んだ身。手形を手にできず終わってたまるか!!満腹中枢を大破し、息を吹き返した私。吸引力の変わらないただ一つの掃除機のような吸引力で蕎麦を吸う。とにかく吸う。あと3杯、2杯、1杯。100杯達成!!「はい、じゃんじゃん。」小さめのガッツポーズをした合間を縫って蕎麦が飛んできた。しまった!隙を見せてしまった。それはスラムダンク6巻、陵南高校との練習試合、ゴールを決めたあと残り3秒で仙道にガードをすり抜けられ、ダブルクラッチを決められてしまうゴリの感覚だった。次、次は阻止しよう。この艶のある蓋で蕎麦をガードしよう。蕎麦を食べた瞬間に箸を蓋に持ち替える。蓋を持った段階で蕎麦はお椀に。あれ?これ閉めるの物理的に不可能じゃないか?「はい、じゃんじゃん。笑」。いつの間にか、お給仕さんにMっ気を見破られとる!笑いながら蕎麦をぶつけてくるお給仕さん。降参です!蓋を閉めさせてください!「はい、じゃんじゃん。笑」
参りましたを告げ、115杯でようやく勘弁していただいた。手形獲得!この後すぐに催しました。
初の東北、記憶に残る旅となった。東北はあたたかい。東北は美味しい。
重要文化財(千葉家)
重要文化財(旧菊池家住宅(伝承園内))
重要文化的景観(遠野 荒川高原牧場 土淵山口集落)