月泳ぐ隠れ湯

湯は滾々と湧き、穏やかな音を紡ぐ。月は水面を泳ぎ、色彩深く世界を染める。私はつややかで凪いだ湯にゆっくりと体を沈める。はりつめた体はあっけなく緩み、こわばった表情が綻んでゆく。心は灯り、やさしい熱が全身にしみわたる。
ここは月泳ぐ隠れ湯。日本のおもてなしが詰め込まれた"温泉"をテーマに綴った作品。
 
Hot water flows copiously and makes calm sound. The moon light is swinging on the water surface, dyes the world deeper colors. I soak myself into the quiet onsen. My strained body suddenly relaxed and my set face relaxed into smile. It warmed my heart and then, my whole body. This is a quiet onsen reflecting the moon light.


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空白あるいは逃避行

あふれかえった日常の問題を放り投げて旅に出る。飽和した頭の中の靄を晴らすために、私はあの温泉を目指す。移り変わる景色をぼんやりとやりすごしながら、頭の中は少しずつすきとおって空白になってゆく。ここでは無理して気を張らなくてもいいよ。いつもそうしているのは知っているから。優しい声が聞こえた


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色彩、深く

荷物を下ろし、足早に湯へ向かう。鳥が歌い、みずみずしく風が吹き抜ける。遠くのほうで川はたえず流れ、耳元で湯は湧き出づる。壮大な自然が紡ぐ鮮やかな芸術に、単調で代わり映えのしない世界は、色彩深く輝きはじめていた。


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滾々と

滾々と湧き出る湯は、からだの芯まで染み込んでゆく。空白になった頭は、湯が奏でる音色を余すことなくとり込んで、私の感覚はじわじわと麻痺してゆく。どれくらいの時間が経過したのだろうか。世界は静まりかえり、夜に身を包んでいた。今いる場所が夢か現か判別できないほどに、この美しく安らかな世界に籠絡されていった。


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灯る、しみわたる

この上ない食事と少しばかりのお酒を嗜み、湯を訪れる。ゆっくりとからだを沈め、肩まで包まれる。湯の音がすこぶる心地よい。このまま一生連れ添っていかなければならないと諦めていた氷のようなからだは、あたたかく灯り、しみわたった温度に、あっけなく溶けていった。


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月は水面に揺れる

見上げれば、星で満ちた空に、鮮やかに浮かぶ月。しんしんと冷える夜に、せめて光だけでもと、湯につかって寒さをしのいでいる。ゆらゆら、きらきら。月の雫が滴り、水面を揺れる。湯はえも言われぬほど美しく染まっていった。


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ほの青く凪いだ世界

夜に向かい、静けさが広がる。少しでも隙を見せると、頭の中を駆けまわる答えのない命題。その難解な問いは、長い間居座って、未だ帰る気配もないから、一旦考えることを放棄して、私はゆっくりと湯に沈む。世界は、月明かりでほのかに青い。波もなく、ただ穏やかだった。

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しんと静まり返った風景に、雪がはらはらと舞う。冷たい風が吹いて、雪花は美しい曲線を描いて踊る。私は深雪に包まれた幽玄な自然を味わいながら、ゆっくりと湯に浸かる。目を閉じると、あたたかくも哀調を帯びた音楽が聞こえて、想いは遠くふるさとに巡っていた。

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泡沫

人のこころは時の流れのようにうたかたに、そこに存在したと思えば居なくなって、泡のように現れては消える。壊れやすいから美しくて、儚いからやさしくなれる。この瞬きほどの大切な時間が胸に長く在り続けるように、目で、耳で、肌で、丁寧に記憶する。落陽は姿を隠すまで直向きに、光を放って消えていった。

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あかつきやみのつややかな空

深い夜がゆるやかに明ける。しんとした闇が、淡い青と暁の色を探し当てて、朝の温度を纏う。少しだけ冷たい風が吹いて、空はみずみずしくつややかに広がる。光をとりもどすこの世界で、私の愁いは僅かずつ晴れていくようだった。

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残んの月は朝に溶けて

朝日が顔を見せる。柔らかな光が空気を浄化してゆく。長く冷えた夜を支えた月は、役割を全うして朝に溶ける。さあ、帰ろう。来た道と同じはずの帰路は似ても似つかない煌めきを放ち、燦々と光り輝いている。明日からまたがんばってみよう。そう思えた。耳元には、心地よい湯の余韻が嫋々と響いていた。


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