今から、時計の針を巻き戻すこと140年。
群馬県富岡市。
ここに、経済大国日本の礎があった。

#1 上州富岡駅へ

新宿駅から湘南新宿ラインに乗り込み、駅弁を贅沢に頬張りながら高崎駅まで身を委ねる。この旅のために買ったのは、欲張りな胃を満たす肉の共演弁当。電車での旅はいつぶりだろうか。暦では立冬も間近の10月終わり。私は富岡製糸場を目指した。秋晴れの心地よい日差しが体を包み込む。視界のいい窓には風景画が次々に展示され、映像になって通り過ぎてゆく。絵画展は終了し、高崎駅に到着。高崎駅からは、目的地の最寄り駅である上州富岡駅を通り、下仁田駅までを繋ぐ上信電鉄というローカル線が走っている。運賃高っ!と思わず声が出てしまいながら、そしてはにかみながら改札をくぐる。小声だから大丈夫。たぶん聞こえてない。しばらくベンチに腰掛けていると電車が到着。運賃安っ!!なぜなら、こうだ。銀河へ行くのにこの価格。せーのっ!銀河へ行くのにこの価格。誰?今銀河「に」って言った人!!次合わせられんかったら置いてくよ!高崎駅に銀河鉄道が到着したのである。2012年から民間宇宙旅行がスタートするらしい。3日間の訓練プログラム参加費用と、フライトの費用込みで20万USドル。1ドル=90円として、1,800万円。約22,500分の1。破格。…このくだり飽きてきた?分かった。乗る!!車内天井にも細部にわたって銀河鉄道の世界が描かれている。何か、得した気分。30分ほど揺られ、上州富岡駅に到着。秋の澄みわたった青空の中、ゆっくりと目的地へ歩く。

1.上信電鉄高崎駅で発車を待つ銀河鉄道999号。2.銀河鉄道999号の車内天井に描かれた存在感抜群のメーテル。見とれて首が痛くなりたい人はぜひ見続けてほしい。3.上州富岡ゆきの切符。4.甲州ワインで育った牛と豚丼1,100円。


#2 適地

ペリーの来航から6年が経った安政5年(1859年)、日本は函館・横浜・長崎の3港を開港し、これにより本格的な貿易が始まった。日本からは生糸やお茶を輸出し、毛織物・綿織物・武器・軍艦等が輸入された。ヨーロッパでは当時、蚕の微粒子病が蔓延しており、日本の生糸に注目が集まった。ヨーロッパからの需要が増える一方、日本では座繰製糸という手間のかかる手法が主流だったため質の良い生糸を大量に生産できず、粗悪品を輸出し不当に利益を得ようとする商人が横行するようになった。このような状況に諸外国からの非難が高まった。この現状を打開するため、明治政府は明治3年(1870年)、模範器械製糸場の設立を決議し、横浜に居留していた生糸検査人であるポール・ブリュナを指導者として迎えた。ブリュナは、製糸場建設に適した場所を選定するため、養蚕のさかんな武蔵・上野・信濃をまわった。良質な繭が供給できる。きれいな水が確保できる。広い敷地が容易に手に入る。燃料の石炭が近所で採れる。外国人指導の工場建設に地元住民の同意が得られた。以上のような理由で、ブリュナは上野の富岡を適地とした。上州富岡駅を出て、駅前通りを直進。親譲りの一夜漬け体質で、子どもの頃から損…あ、これだと完全に漱石さんになる。そもそも親が一夜漬けかは聞いたことないわ。今度実家に帰ったら聞いてみよう。諏訪神社の前の横断歩道を渡り、宮本町通りに入る。ギリギリになって就寝前にネットで漁った薄っぺらい知識を頭から取り出して、復習しながら歩く。遺跡・歴史的建造物を眺めるとき、その建物にある歴史を知って観るのと観ないとでは、雲泥の差ができるのだ。いや、お前昨日30分も調べてないじゃろーが。偉そうに。誰?誰?今、おれ悪口言われたー。悪口を言われながら城町通りを抜け、悪口を言われながら富岡製糸場に涙目で辿り着いた。


 
 

#3 ポール・ブリュナ

明治4年(1871年)4月、ブリュナはフランスに渡り、繰糸器械の購入と、糸繰りを教える技師を雇用し、同年10月に再び日本へ。ブリュナはフランス式の繰糸器械を日本人工女の体型に合わせて小型化し、日本の高湿度でも品質を低下させないように再繰式に改良した。ブリュナから依頼を受けたフランス人のオーギュスト・バスチャンは富岡製糸場の設計を担当した。建物の構造には、木材で骨組をつくり、その間にレンガを積んでいく木骨レンガ造という工法がとられた。レンガを実物で見たこともない当時の日本。ブリュナは日本の瓦焼職人に手ぶりで指導し、レンガを焼かせたそうだ。フランスと日本の技術が融合されてできた木骨レンガ造の建物群、ボランティアガイドさんの話によると、関東大震災のときにも壊れず、記憶に新しい東日本大震災でもガラスが2枚割れただけだったそうだ。

1.中間の柱がなくなり、広い空間を確保できるトラス工法を採用した製糸場。2.木骨レンガ造りでつくられた東繭倉庫。 

#4 操業

明治5年(1872年)7月、富岡製糸場は完成。同10月4日、操業を開始した。政府は工女募集の通達を出したが、当初思うように集まらなかった。フランス人のたしなむワインを血と思い込んだ日本人の間で、富岡製糸場に入場すると生き血をとられるというデマが広がったからだ。政府は製糸場の意義を記した告諭書を幾度となく出し、初代場長の尾高惇忠は当時13歳の娘、勇を第1号の工女として入場させた。翌年1月、各地から入場した工女は400人を超えた。


#5 東西の繭倉庫

乾燥させた繭を貯蔵しておく東繭倉庫(1)と西繭倉庫(2)の長さは共に100メートルを超える。明かりを確保するため、また湿気を防ぐために多くの窓が設置されている。ポール・ブリュナが家族と暮らしていたブリュナ館(3)には地下室があり、ここに生き血と思われていたワインや食糧を蓄えていたといわれている。2号館(4)は、日本人工女に技術を指導するフランス人工女の宿舎として使われていた。

#6 富岡製糸場という職場
日本で最初の官営模範工場。富岡製糸場には2つの目的があった。ひとつは富岡製糸場を模範とした製糸場を各地に設立すること。もうひとつは、各地から集められた工女に製糸技術を習得させ、それぞれの故郷で技術を伝承させることだった。その目的のとおり、富岡式の器械設備を採用した製糸場は全国に広がり、富岡を巣立った工女たちは郷里の製糸場に指導者として迎えられた。富岡製糸場には日曜日の休みがあった。日曜日の他に祭日、年末年始、暑休があり、年間76日の休みがあった。実働時間は7時間45分で、能力給だった。日本の役所が日曜制を始めたのは明治8年(1875年)4月であり、当時の日本では最も進んだ勤務条件だった。さらに、富岡製糸場の敷地内には診療所があった。診療所にはフランス人医師が常駐しており、福利厚生の面でも優れた職場だったことが伺える。

世界遺産にむけて

富岡製糸場は、平成17年(2005年)7月に、「旧富岡製糸場」として国の史跡に指定された。現在富岡市では、製糸場と製糸場に関連する養蚕農家群や、絹・生糸等の運搬に活躍した鉄道施設等の絹産業遺産群を世界遺産に登録する活動を進めている。平成19年(2007年)1月には、世界遺産暫定リストに登録され、そしてついに、平成23年(2011年)操業月の10月、私が来た。…これだけは言っておこう。このくだりは必要ない。ただ言いたかっただけだ。官営で始まった富岡製糸場はやがて経常赤字になり、明治26年(1893年)に三井財閥へ払い下げられた。明治35年(1902年)原合名会社に譲渡され、昭和14年(1939年)片倉製糸紡績(株)に渡った。経営母体は時とともに変遷していったが、操業時の建物は当時の形そのままに残されている。明治初期の木骨レンガ造の建物として完全な形で残っているのは、日本では富岡製糸場だけだ。「富国強兵・殖産興業」を掲げた明治時代。日本が諸外国に並ぶための「殖産興業」を担った建物。操業から140年経った今も、威風堂々と腰を下ろしている。

旅人にむけて


富岡製糸場
〒370-2316
群馬県富岡市富岡1-1
tel|0274-64-0005
hpwww.tomioka-silk.jp
e-mailworldheritage@city.tomioka.lg.jp
open9:00-17:00
closed12/29-31
上州富岡駅下車、徒歩約15分。詳細は、左記の富岡製糸場ホームページをご覧ください。
東京駅からのアクセス
東京駅 ―(JR上越・長野新幹線約1時間)→ 高崎駅 ―(上信電鉄約40分)→ 上州富岡駅
南アフリカ共和国からのアクセス
ケープタウン国際空港 ―(ロンドン経由、フライト約24時間)→ 成田空港(空港第2ビル駅) ―(京成特急スカイライナー約40分)→ 日暮里駅 ―(JR山手線約10分)→ 東京駅 ~ (上記参照)
 
富岡製糸場-世界遺産暫定リスト巡り-
Tomioka Silk Mill-Pilgrimage to Tentative List of World Heritage-
参考文献:富岡市編集・発行『富岡製糸場 解説書(改定版)』